特殊技術の麻薬に酔いしれたハリウッドは魂を失ったサーカスショウを競いあって、名監督といわれる人までがその流砂に足をすくわれ、ホームラン狙いの大ファウルを打ち上げるばかり。人間を深く掘り下げたアメリか映画の伝統を無くしたかと思っていた。しかしこの「ミリオン・ダラー・ベービー」ではその地下水流はしっかり流れていることを証明している。
 この作品は文句なしの万点。ネシャマー度★★★★★。そして芸術性も★★★★★。
 しかも小難しい映画ではない。大衆性も備えた、女性をも引きずり込ませ泣かせる映画だ。映画が終わって出てくる人の顔が皆、引き締まって良い顔になっている。
 誰もが人間の生きる意味を考え、生と死の現実に思いを致し、自分の人生もいろんな人生にも、人間とは所詮これだ、と納得し、何か満足して劇場から出てくる。
 感動はしばらく漂い、心の底に、何がしかの影響を与るかも。
 この感動は、生死を見つめる凄いリアリティに支えられれている。例えば、モーガン・フリーマンは定評ある名優だが、今まではいつも、人生を味わい尽くした癒しの父、というステレオタイプの役割で使われていた。しかしここでは、冴えない老後を日々送る一人の老人という顔を除かせながら、従来のフリーマンの味を失っていない。
 クリント・イーストウッドがカトリックの神父と交わす簡単な会話はこの映画に計り知れぬ深みを与えている。(『ゴッドファーザー』の荘厳な幼児受洗と問答無用の殺戮シーンを同時平行で映し出したあの名場面が映画の奥行きを思いきり広げたことを思い出して欲しい〉。
 神はクリントと神父のどちらに強く心を留めたか。クリントではないか。それは『ヨブ記』のヨブとその友達に似ている。あえて神に抗議するヨブと、形どおりの説教でヨブを責める友人たちと。
 エデンの園でアダムはあえて神に背いた。全智全能の神がアダムに禁断の木の実を食べさせたくなければ、できたはずだ。しかし神はアダムに自由意志を与えた。神の命にも背く自由が無ければ、アダムも禽獣に等しいからだ。アダムはその自由意志を行使した。ここで注目すべきは、アダムが神に背いた後に初めて神とアダムの会話が始まり、アダム一族と神の親密度は深まったことを創世記は示していることだ。
 この映画、見て損はしない、というよりも、見なければ損をする、そんな映画だ。見ない人は、高価な輝く宝石が安くて手に入るのに、気づかずに通りすぎてしまう人のようなものだ。

http://www.neshama.info/ (ネシャマー王国)
  http://www.geraldschroeder.com/ (シュローダー博士のHP)

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