無心論者が信じないという神は、大体、聖書(ヘブライ聖書)の『神』ではない。またキリスト教信者が信じている神も不幸にして、ほとんどが聖書の『神』ではない。

 あるアメリカ系ユダヤ人の母親が死んだとき、友人がお悔やみに来て「それでもやはり神を信じるのかね」と尋ねた。

 彼は答えた。
 「私の知る限りアブラハムも死んだ、イサクも死んだ。ヤコブも死んだ。ノアも死んだ。アダムすら死んだ。聖書のすべての人物は死んだ。産まれた者は死ぬように決まっている。大自然と聖書はこの点で完全に一致する」。

 聖書の恵み深い『神』は、人間の苦悩をどう見ているのか、人間の苦悩を放っておく神が恵み深いのか。可笑しいではないか。友人はこう考えて質問したのである。しかし実に多くの人が、聖書を読んで、奇妙な神々の特性が作り出している。残念ながら、我々の考えはそれらの考えと必ずしも一致しないのだ。

 聖書の『神』の特色を探ろうとすれば、探るべき場所は聖書であり、聖書の『神』の描写が本当かどうか(現実にあっているかどうか)調べたいなら、調べるべき場所は大自然の中である、

 便宜上『神』と名づけている超越的『無限』の二つの面が、縮められて、この時間空間の有限四次元世界に投影された、というのが我々の解釈である。

 一つは聖書と呼ばれる言葉を通しての啓示であり、もう一つは、自然の驚異と、自然を動かす法則である。

 我々が想像主について知っていることはそれだけである。この世界は創造主の影(ヘブライ語のtsml)に過ぎないのだ。『無限』の本質の全貌は我らの手の届かないところにある。
           (G・シュローダー「『神』の科学」から)

 http://www.neshama.info/ (ネシャマー王国)
 http://www.geraldschroeder.com/ (シュローダー博士のHP)(英文)

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