ラビ・イサクのたとえ話は次のことを意味する。
 「旅人=一つの場所から他の場所へ絶えず動いている人」は『神』に関する質問を問い続ける人である。固定観念に縛られないで、新しい現実、異なるネシャマー的可能性を求める人である。
 『神』は隠れていたのだ。アブラハムが「この屋敷の管理人はいないのだろうか」とアブラハムが尋ねると『神』は顔を出して「わたしが所有者だ」と言った。
 同様にアブラハムが「世界を導く者がいないなどありえようか」と問うたとき、『神』が顔を出して言った。「わたしが導く者、宇宙の統治知者だ」と。
 『神』は隠れて待っていたのだ。自分を求めるアブラハムが通りかかるまで。

 被造物を拝み、血なまぐさい生け贄儀式に浸り、迷信にまみれていた世界に、初めて明かされた『創造主』の存在は、当時の(現代でも)世界に大きな反発を招いたに違いない。その時から現代まで、『神』を求め、『神』に求められる、人間への迫害が続いているの見ても分かるだろう。

 ラビ・ヒイヤは次のように語る。

 アブラハムの父テラハはカルデアのウルで偶像を作り売っていた。ある日彼はアブラム(アブラハムの改名前の名前)に店を任せて外出した。すると一人の男が偶像を買いに来た。
 「あなたは何歳ですか」とアブラムは尋ねた。
 「五十歳です」
 「五十歳の人が生後一日の像を拝むのですか」
 男は恥じて帰った。
 一人の女が小麦粉を皿に持って来た。
 「これをあの神々のお供えにしてください」
 女が去ると、アブラムは偶像の群れを杖で砕き、一番大きな像の手に杖を持たせた。
 父が帰ってきた。
 「これは一体どうしたのだ」
 アブラムは答えた。
 「女の人が小麦粉を一皿持ってきて、お供えにどうぞ、といったのです。すると、像が、口々に、おれが最初に食べる、と言い出して収拾つかなくなったのです。すると一番大きなこの像がみんな打ち壊したのです」
 「おれをばかにするのか。そんなことができるわけがない!」と父は叫んだ。
 「お父さん、あなたは矛盾しています。偶像の群れは、知恵もなく、しゃべれず、耳も聞こえません。それを礼拝すべきものとして売っているではありませんか」
 父はアブラムを国王ニムロドに引き渡した。
 ニムロドはアブラムに言った。
 「火を拝んだらよいではないか」とニムロドは言った。
 「水は火を消します。水を拝むべきではないでしょうか」とアブラムは答えた。
 「では水を拝むがよい」
 「水を運ぶ雲を拝むべきです」
 「では雲を拝もう」
 「雲を散らす風を拝むべきです」
 「では風を拝め」
 「風は人間を倒せません。人間を拝むべきです」
 「おまえは口舌の徒だ。我々は火を拝む。おまえを火に投げ込んでやる。おまえの神に救ってもらうがよい」
 アブラムの弟ハランは傍観しながら考えた。アブラムが勝てば、アブラムに味方し、ニムロドが勝てばニムロドに味方しよう。
 アブラムは無事、火から出てきた。

 『神』が引き出したのである。『神』は、偶像礼拝の業火が燃え盛るカルデアのウル(火)からアブラハムを引き出した。なぜなら『神』はアブラハムを必要としたからである。

 http://www.neshama.info/ (ネシャマー王国)
 http://www.geraldschroeder.com/ (シュローダー博士のHP)(

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