空の空 AT

2006年7月28日
 ラビ・サムエル・ベン・イサクはラビ・サムエル・ベン・エレアザルの名において教えた。コヘレトが述べた七つの「空」は人間が目にする七つの世界[段階]に相当する。一歳のとき人は天蓋つきの輿に座した王のように、皆に甘やかされキスされる。二歳、三歳になると彼は豚のように食い物樋に手を突っ込む。一〇歳になると子山羊のように跳ね回る。二〇歳になると彼は馬みたいにいななき、自分の肉体にうっとりし、妻を求める。結婚するとロバみたいだ。[生活のために懸命に働く]。子供ができると犬のようになり、厚かましくがつがつ食べ物と生活必需品をを求める。老人になると猿のように腰が曲がる。[人間の外観がなくなり感覚もなくなる]。以上のことは無知な者に当てはまる。しかしトーラの子、トーラを良く学んだ者には「さてダビデ王は今や老いた](列王記上一・一)とある。すなわち彼は「老いて」いたが、いぜんとして「王」であった。
 ラビ・ユダ・ベン・R・シモンは言った。コーヘレトの言う七つの「空」は天地創造の七日に相応する。最初の日「はじめに『神』は天と地を創った」(創一・一)とあるが「まことに天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて」(イザヤ五一・六)とある。二日目「蒼穹あれ」(創一・六)とあるが「天は巻物のように巻かれる」(イザヤ三四・四)とある。三日目「天の下の水は一箇所に集まれ」(創一・九)とあるが「永遠なる主はエジプトの海の舌を干上がらせ」(イザヤ一一・十五)とある。四日目「天の蒼穹に輝くものあれ」(創一・一四)とあるが「月は恥をかき、太陽は辱められる」(イザヤ二四・二三)とある。五日目「水は群がる生き物でうごめくように」(創一・二〇)とあるが「私は空の鳥も海の魚も取り除く」(ゼファニア一・三)とある。六日目「『神』は言った、われらの像(かたち)に人を造ろう」(創一・二六)とあるが「わたしは人を地の面から断つ」(ゼファニア同前)とある。安息日に関しては何と言えようか?[安息日はその中に「空」のない聖なる設定ではないか?]。「それを冒涜する者は必ず死ななければならない」(出三一・一四)とあるではないか。[安息日は死の原因となりうる。ゆえにその中に[空]がある]。[死は]それを故意に冒涜した者に適用され、故意の冒涜でないときは捧げものをもたらして償いを得ることができる。[すなわち安息日は事実上その中に[空]のないものであり、人間への祝福である]。ラビ・ベレキアは言った。アダムが安息日の卓越性、すなわち[故意でない冒涜に対して]捧げものをもたらし償いを得る、と知ったとき、彼はほむべき聖なる方に向かって、それに関する詩篇を歌い、褒め称えた。それで「詩篇。安息日のための歌」(詩篇九二・一)とある。ラビ・レビは言った。アダムがその詩篇を作成した。

 トマス・ノアは言った。「日の下」の労苦はすべて空しい。「日」が消える日、すなわち太陽も地球も消える日、「日の下」も消える。空しさも消える。トーラを具現した新生物が出現する。

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